自治会コラム


2022.2.11 

調布の歴史①

【旧石器時代】 

調布市のエリアに最初に人が住み始めたのは、2~3万年前です。最後の氷河期の最も寒冷な時期でした。海面は今より100mも低く、平均気温は現在より78度低温でした。オオツノシカやナウマンゾウが生息し、富士山や箱根の山が噴火を繰り返していました。噴火による火山灰は4mほどにもなりました。赤土と呼ばれる層です。

この頃の遺跡は、野川、飛田給北、野水、仙川、入間町城山にあります。この赤土からたくさんの石器が見つかっています。

【縄文時代】

氷河期が終わり、気候が温暖になったのが、1万2千年前。森には、ブナ、ナラ、クリなどの落葉広葉樹林が生い茂り、大型の獣に替わってニホンシカやイノシシが現れました。森から得られる食料を効率よく利用するために土器が作られ、煮炊き用の深鉢土器をはじめ、浅鉢、皿、壺、注口土器などが加わっていきました、これらを総称して縄文土器といいますが、一万年も造り続けられたため、器形や組み合わせが大きく変化しています。この辺では上布田、下布田、下石原に遺跡があります。

縄文前期から中期にかけては温暖な気候が続きました。植物資源に恵まれたため人口が増加し、大規模集落が出現しました。野川や多摩川の水辺近くの台地にも大きな集落が作られました。

縄文人が最も依存したのは、森のドングリ、クリ、トチなどの植物資源の採集でした。これに狩猟や漁労が加わり、安定した衣食住を支えていました。

縄文の後期は気温が低くなり、狩猟や採集に支障が出てきました。縄文人は自然への祈りによって豊穣を願うとともに、新たな食糧を求めて移動していきました。下布田遺跡にも、儀礼や祭祀の道具が多く残されています。

(「図説 調布の歴史」より)                      平田記                                     

 



2022.1.8 

調布ゆかりの有名人

五味太郎ー絵本作家。八雲台小卒。かつてNHKの「課外授業 ようこそ先輩」で八雲代小の6年生に授業を行った。

今井信子世界的バイオリニスト。調布市立第四中学校、桐朋学園卒。

高田純次ー タレント。調布二小、調布三中、府中高校卒。

筒井道隆-俳優。数々のドラマに出演。大河ドラマ「新撰組」や「功名が辻」に出演。緑ヶ丘小調布四中卒。

荒木大輔ー元プロ野球選手、様々な球団で投手コーチ。調布リトルリーグで活躍。神代中、早稲田実業卒。

藤丸真世ーシンクロナイズドスイミング選手。オリンピックのシンクロチームで銀メダル獲得。若葉小、調布四中卒。

和泉実ー早稲田実業野球部監督、調布リトル・シニア出身。調布中卒。

(調布のトリビア掲示板より)

平川玲ーサッカーJリーグ東京FC所属。上の原小卒。

相馬勇紀ーサッカーJリーグ名古屋グランパス所属。布田小卒。

このほか、作家の武者小路実篤は仙川、漫画家の水木しげるは富士見町、女優の朝丘ルリ子は日活撮影所の近くに、また岸本加世子は布田に住んでいました。石原さとみは深大寺の生まれですね。

そのほか、元横浜ベイスターズの監督、中畑清は仙川に住んでいます。

残念ながら小島町からは、有名人は出ていないようです。なにか情報お持ちの方はお知らせください。

                                                (平田記)

 



2021.11.4

調布に飛行場があるのはなぜ?

小島町の上空にはよく小型飛行機が飛んでいますね。調布飛行場っていつから何のために作られたんでしょう。今回は飛行場の歴史について調べてみました。

調布飛行場といえば、ユーミンの「中央フリーウェイ」に♪調布基地をおーいこし♪というフレーズが有名です。でもあれはちょっとやばいです。実は日米ともに調布飛行場が「調布基地」と呼ばれた記録はないんです。「帝都防空の最重要基地となった」という表現がある程度です。ユーミンは「府中基地」と間違えたんじゃないかと思います。

今、飛行場のあたりを「関東村」といっていますが、これも、なんで関東?と思いますよね。

まずは大まかな歴史をたどってみましょう。

きっかけは昭和13年に軍部から調布に飛行場を作りたいという要請でした。昭和16年に公共用飛行場として開設され、第二次世界大戦中には日本陸軍が使用しました。大戦末期に、首都圏に飛来するB-29爆撃機などを撃退するための戦闘機隊が配備され、その時司令部がおかれたようです。空襲も受けましたが、戦闘機を作っていた三鷹の中島飛行機が主なターゲットでその余波程度といわれています。高射砲があったので、これが狙われました。

敗戦後の昭和20年、調布飛行場は連合国軍の関東の占領業務にあたったアメリカ軍によって接収されます。舗装滑走路は米軍の飛行場として使用され、未舗装の西側地区は、水耕農場とされました。

昭和27年に、対日講和条約日米安保条約が発効し、日米行政協定により、飛行場とともに「調布水耕農園」の名称で、在日米軍の提供施設区域に切り替えられました。「水耕農園」なんて全然知りませんでしたね。米軍が人糞肥料を敬遠したと言う説もあるようです。

昭和29年、飛行場は日米共同使用となり、昭和30年には、飛行場地区の一部が日本に返還され、場外離着陸場として運用されるようになりました。

昭和39年の東京オリンピック開催にあわせて、渋谷区にあった米軍兵舎・住宅施設「ワシントンハイツ」が、日本に返還されることになり、代替住宅施設として「関東村住宅地区及び補助飛行場」が建設されました。そのあたりから「関東村」というようになったみたいです。「関東」というのは、米軍がかつて関東の占領業務にあたっていたことと関係があるのかもしれませんが、残念ながら詳しいことはわかりませんでした。

昭和48年、飛行場地区が日本に全面返還され、その後約10年にわたり、返還後の跡地の利用について協議・折衝が繰り返されました。

昭和54年以降、「新中央航空」が、調布 - 新島間、調布 - 大島間、調布 - 神津島間の不定期便を運航するようになりました。知り合いがこれを利用して新島に行きました。所要時間35分ですが、料金は船の2倍から3倍程度でちょっとお高いです。結構揺れるらしいです。

また、セスナ機による遊覧飛行も行われています。(市内富士見町に墜落した事故はこれですね。)

平成8年、東京都と六者協とが調布場外離着陸場の正式飛行場化に合意。

平成13年、都営コミューター空港として開港。

平成18年、国土交通省及び気象庁の官署が廃止され、代わって東京都が情報提供業務などを行うこととなりました。

平成25年、新しいターミナルビルの運用を開始平成25年、島嶼部定期便に限り計器飛行方式(目視と計器による飛行)での運用を開始しました。

島の人たちにとっては、本土との連絡や物流ができる貴重な空路のようでもあります。(http://chofu-island.or.jp/

ただ、飛行場は、騒音や墜落事故など諸問題を抱えています。安全を十分確保した上での運営をしてもらいたいと思います。

                                                      (平田記)



祭囃子の歴史

2021.9.28

祭囃子はいつから?    

                               

江戸の祭囃子の淵源は「葛西ばやし」と「神田ばやし」とされ、そこから周辺地域に広がっていったようです。

調布に江戸の祭囃子が伝えらえたのは明治時代で、北多摩郡千歳村字船橋(現世田谷)の内海氏によって伝えられたといわれています。この系譜を船橋流、また山の手ばやしといいます。これと別に、芝区の福岡氏によって国領に伝えられた下町ばやしがあり、小島はこちらに属します。とはいえ、両者の交流もあったことから区別なく「調布の祭囃子」と呼ぶようになりました。 

小島では、昭和22年に青年会が中心になり、国領の指導を受けて始まりました。現在は、正月の獅子舞、3月の富士見台桜祭り、7月の保存会大会、923日のお祭りが主なイベントになっています。

残念ながら、2年続けて中止となり、現在は練習もままならない状況ではあります。(平田記)  



京王線の歴史②~京王多摩川駅~

京王線は1913年に笹塚~調布間が開通しましたが、その3年後の1916年(大正5年)に調布~多摩川原間(京王電軌多摩川支線)が開業しました。駅名は、「多摩川原(たまがわら)駅」です。現在の「オリジン」のある場所ですね。

この支線は、多摩川の川原で採掘した砂利の輸送のために敷設された路線でした。終点である多摩川原駅から多摩川の川原までは、砂利運搬用のトロッコで結んでいました。このころ行楽時期以外はほとんど乗客もなく、普段は砂利を積んだ貨車が行き交っていたそうです。

192761日、京王電軌の沿線行楽地開発によって、多摩川原駅前に「京王閣」が誕生しました。園内には総大理石貼りの大浴場(ローマ風呂)、和洋食のメニューが多彩な大食堂やカフェ、ビリヤード場などの各種遊戯施設を完備した鉄筋3階建ての本館が建っていました。屋外には当時はまだ珍しかったメリーゴーラウンド、豆汽車、ウォーターパークなどがあり、レヴューを行う演芸場も備えていました。その規模は東京近郊では最大を誇り、関東の宝塚と称されるほどでした。

その後1933年(昭和8年)、多摩川原駅の隣に日本映画多摩川撮影所が誕生しました。映画関係者が暮らす住宅街も整備され、調布の多摩川周辺は映画産業の町として、のちに「東洋のハリウッド」と呼ばれるようになっていきます。撮影所の北側(小島町ふれあいの家辺り)には、日活村・大映村と言われた映画関係者の住宅がありました。

1937年(昭和」12年)に駅名が「京王多摩川」となりました。当時の東京横浜電鉄、東横線多摩川園前駅(後の多摩川園駅)の旧名称が「多摩川駅」であったため、「京王」が冠されたわけです。

戦争の影が色濃くなるにつれて、避暑や花見などのような長閑さは失われていきました。

「京王閣」は太平洋戦争中、防空監視哨が置かれるなど軍用の施設として使用され、終戦直後は占領軍のためのレジャー施設となりました。その後1947(昭和22)年に売却され、その跡地に1949年、京王閣競輪場が開設しました。

1955年(昭和30年)、京王帝都電鉄は、京王多摩川野球場跡地に京王遊園をオープンさせました。1959年(昭和34年)にはプール(後の京王プール)も開設し、多くの客で賑わいました。1971年(昭和46年)遊園地の営業が終了。1990年前後にはプールも営業を終え、その後、遊園地エリアは京王テニスクラブに、プールエリアは住宅地となりました。

(ほぼウィキペディア参照)

現在、駅周辺は再開発計画が検討されており、アンジェ(旧百花苑)も完全閉園されました。数年後には全く新しい装いの駅前になるようです。昔の名残は、昭和16年創業の「竹乃屋」さんにあるくらいでしょうか。

僕が子どものころは、駅を降りると百花苑の池があり、鯉を横目に橋を渡って多摩川方面に向かったものでした。京王遊園、京王プール(冬場はローラースケート場)。よく行きました。懐かしいですね。

 

 

京王線の歴史①

京王線は、1913年に笹塚~調布間で開通しました。当時の社名は京王電気軌道株式会社。軌道というのは、路面の線路のことですね。その後、1916年に新宿~府中間が開通、同時に調布~多摩川原(現京王多摩川)間が開通しました。1926年には府中~東八王子間の営業をしていた玉南電気鉄道株式会社を合併し、新宿~東八王子間の営業を開始しました。ただ、軌間が京王が1372 mm、玉南が1067 mmと線路の幅が違ったので、2年間、直通運転ができませんでした。

井の頭線は1933年に帝都電鉄株式会社により渋谷~井の頭公園間が開通し、翌34年には吉祥寺までの全線が開通しました。

その後、帝都電鉄は1940年に小田原急行鉄道と合併しましたが、戦争が激しくなった42年、陸上交通事業調整法により、小田急電鉄は京浜電気鉄道とともに東京横浜電鉄と合併し、東京急行電鉄となりました。さらに、京王電気軌道も1944年に東京急行電鉄と合併し、終戦を迎えました。このあたりはややこしいですね。

 戦後、東京急行電鉄は、194861日、東京急行電鉄、小田急電鉄、京浜急行電鉄、東横百貨店、そして京王帝都電鉄の5社に分割されました。設立当時、京王は分割された他の鉄道会社に比較して最も規模が小さい会社でした。そのためかどうか、子どもの頃の京王電車は緑色の田舎風でした。(続く) *京王50年史参照  (平田記)



自治会の歴史

 町内会(自治会)の原型は、豊臣秀吉が治安維持のため、下級武士・農民に組織させた五人組とされています。江戸幕府も秀吉の制度を継承し、さらに統治の末端組織として運用しました。名主・庄屋の統率下、領主は、連帯責任・相互監察・相互扶助の単位としてこれを利用し、治安維持・村や町の中の争議の解決・年貢の確保・法令の伝達周知の徹底をはかりました。

 戦時中に作られた町内会は、市区町村の従属組織となり、大政翼賛の大きな役割を果たしたため、戦後の民主化により、一旦消滅させられました。しかし講和条約の発効後、自治組織として再生し、高度成長期には生活改良活動やお祭りを担うことになりました。昭和後期になると、活動の担い手の減少と義務的慣例への負担や不公平感の増大で、町内会は停滞し始めます。平成期には、防災等の地域活力維持のために注目される存在になりましたが、平成後期に「新しい公共」説が登場すると共に、公助と共助の役割分担がなされ、共助の担い手への期待も、町内会から地域経営組織に移っていきました。

 調布では「地区協議会」がそれに相当するでしょうが、実際には富士見台地区協は自治会の集合体であり、実質的に共助を担うのは自治会になります。なので、現時点で自治会は、「共助の促進団体」という位置づけになるかと思われます。(平田記) 



小島町の歴史

 江戸時代、調布地域の村は18か村で、その大部分は天領(幕府の直轄地)と旗本領でした。江戸後期の文化文政期、小島地域の家数は33軒でした。今でも「小島36軒」と言い継がれていますが、かつては、今の調布ヶ丘、多摩川、下石原、富士見町の一部も含んだ広い地域でした。

 ところで「小島」という地名はいつ頃からあったのでしょう。「調布史年表」では、1629年(寛永6年)に、「幕府領の国領村、下布田村、上布田村、小島分村の新田検地」とあるのが最初です。江戸時代初期には存在していたことになります。古文書では、武蔵国(または武州)多摩郡布田小島分村となっており、布田に付属するような位置づけだったようです。国領や布田は、それぞれ幕府領、布作りと関連した名前ですが、「小島」はなんで「小島」なのか、残念ながらそこはよくわかりません。

   次に出てくるのは1698年(元禄11年)です。「下石原村佐五兵衛、布田小島分村源右衛門から下々畑六反十八歩を質物として金五両を借用」。一瞬ドキッとしました。私の先祖に「下石原の佐吾平」がいるんです。でも、江戸末期の人ですから別人です。しかしこんなことまで載せる年表というのもおもしろいですね。

下って1770年(明和7年)「この年以前に小島分村で年番名主制を採用」。名主が年毎に交代したらしい。

1772年(安永元年)「小島分村で名主給や年貢などの不納による騒動が内済」。内済とは和解のことですが、どんな騒動だったんでしょうね。

1792年(寛政4年)「上布田村、小島分村、玉川通りの川除普請」。この頃は多摩川が度々氾濫しています。

1862年(文久2年)「下石原村、布田小島分村、上布田村、上石原村、用水の取り入れについて議定」。用水とは田んぼにひく水のことで、府中用水のことでしょうか。水は農民にとっては死活的な問題ですから、争いにならないように取り決めをしていたと思われます。

1869年(明治2年)「布田宿組合の村々、品川県支配所となる」。その後入間県となりますが、明治4年の廃藩置県で、三多摩全体とともに神奈川県に編入されました。東京に戻るのは1893年(明治26年)です。このいきさつは興味深いのですが、一説では、多摩川の管理をめぐって神奈川県知事と三多摩選出の国会議員との軋轢があったことが関係しているようです。

なお、「調布」の地名は江戸時代には見られません。明治10年、学校令で作られた石原、国領、布田の学校を統合してできた「調布学校」というのが最初です。なぜこの地名を採択したのかは、詳しい資料がないのでわかりませんでした。(平田記)

追記

 新編武蔵風土記稿に調布の地名の由来が書かれているようです。

 地名としての「調布」は、江戸時代後期の文化・文政期に記された『新編武蔵風土記稿 巻之93』において「布多天神社」周辺を『武州調布の里といへり』という言い伝えがあることが記述されています。ただし、調布学校の命名者がそのことを参考にしたかどうかまではわかりません。2021.12.12



「映画の町」調布

 調布南高校の隣に角川大映スタジオがありますね。その向かいの路地に入ると公園があり、そこに錚錚たる俳優が名を連ねている「映画俳優の碑」が建っています。そこで今回は映画撮影所と小島町です。

昭和8年、時代劇・現代劇どちらの撮影にもふさわしい自然環境やフィルムの現像に欠かせない良質な地下水があったため、ここに「日本映画多摩川撮影所」が設立されました。敷地は現在より広く、南高や公園も敷地内だったそうです。が、翌年倒産。日活が買収して「日活多摩川撮影所」となりました。昭和17年、戦時統合で「大日本映画撮影所」に変わり、戦後に「大映東京撮影所」となりました。

昭和30年代の映画は、当時最大の娯楽でした。大映は昭和49年の倒産まで、年間約30本の映画を制作し、あの黒沢明も「静かなる決闘」等を作っています。映画斜陽となるとともにスタジオも縮小し、平成16年までに、角川グループに営業譲渡され、名称も「角川大映撮影所」となりました。なお、染地にある「日活撮影所」は昭和29年に完成し、その広大な敷地に銀座の町を再現していました。残念ながら火災により消失してしまいましたが。

 

独立プロの撮影所も含め、調布は「東洋のハリウッド」を誇りました。映画関係の人もたくさん住んでいて、大映村、日活村といわれる地域もあったそうです。私の母はエキストラの募集があると友だちと連れだってよく行っていたそうです。いいアルバイトだったとか。(平田記)



品川道

 

 品川道は品川まで続いているの? 

 

 長年の疑問でしたが、謎が解けました。調布市の資料によると、起源は中世14世紀、品川湊の発展に伴うとされています。甲州街道の整備よりずっと前ですね。西は東府中駅から飛田給、下石原、小島、布田、国領まではほぼまっすぐ。国領を南に折れて慈恵医大から現狛江通り、狛江三叉路を経て世田谷通りに合流し、二の橋から喜多見、そこから瀬田、上野毛、等々力を抜けて雪が谷、洗足池、そして品川です。但し古道のため、幾筋かあるようです。なお、喜多見から、田園調布で分岐した六郷までを「いかだ道」ともいい、これは多摩川の筏乗りの帰り道であったようです。 (平田記)

https://gcy.jp/kkd/shinagawa.html